2012年 番外編ショパンコンサートのご報告

すっかり東京近郊は春の装い、自宅のある神奈川県ではちょうど桜の見頃となりました。さて今回も大変遅ればせながら、昨年825日に開催されたショパンコンサートのご報告をさせていただきます。
当日はショパンに関する作家・下重暁子さんの構成による語りと、佐伯恵美さんによるクラヴィコードとプレイエルピアノの演奏でした。
下重さんは以前もこのブログで記したように別荘がアトリエのすぐ近所、かつてエロイーズ・カニングハムが所有していた同別荘を見せていただいたり、アトリエブルックスのショパンコンサートを聴きにいらしてくださったりと、ここ数年来のお付き合いでした。そんなご縁で当ショパンコンサートに何らかの形で出演をお願いしていたところ、下重さんの友人であるクラヴィコード奏者・佐伯恵美さんにも加わっていただき実現する運びとなりました。 
ちなみにショパンはバッハを敬愛しており、ジョルジュ・サンドとともにマジョルカ島へ旅立つ際もバッハの譜面しか持たなかったと言われています。作品についても構成や形式的な影響を受けているものが多く、今回のコンサート前半もクラヴィコードによるオールバッハプログラムとなりました。
2012年825日開催 「番外編 軽井沢で楽しむオールショパンプログラム」
 = 旅と手紙で綴るショパンの愛と生涯
構成&語り 作家・下重暁子 
クラヴィコード
&ピアノ演奏 佐伯恵美
第一部
「バッハからショパンへの流れ」 <オールバッハプログラム>
クラヴィコード演奏 佐伯恵美
曲目
フランス組曲第5ト長調BWV816
アルマンド、クーラント、サラバンド、ガボット、ブーレ、ルーレ、ジーグ
シャコンヌ BWV1004 (佐伯恵美編曲)
第二部
『手紙と旅で綴るショパンの愛と生涯』 <オールショパンプログラム>
語り 下重暁子 
プレイエルピアノ演奏 佐伯恵美   
曲目
ノクターン第9番 作品32-1 
24
のプレリュード作品28より 
4番、第15番「雨だれの曲」、7番、6番、18番、20
ノクターン19番ホ短調 作品72-1     

           

第一部の冒頭、下重さんの挨拶とクラヴィコード&プレイエルピアノの紹介がありました。またクラヴィコードを演奏する佐伯さんから、ショパンの恋人だったジョルジュ・サンドの小説にも村祭りに皆でブーレを踊ったという記述があり、これから弾くバッハのフランス組曲に収められている「ブーレ」も同じ形式の舞踏曲であり、当時は身近な音楽だったと説明がありました。
佐伯さんのフランス組曲5番のクラヴィコードの演奏では、下重さんが「かそけき音」と評したように、その音色は耳をそばだてないと聴き逃してしまうほどでした。慎ましやかで、秋の夜に虫の鳴き声を楽しんだ記憶を思い起こさせました。
しかしロマン派の作品とは異なり、曲自体は様式美に溢れた活動的なものでした。特に前出の舞踏曲プーレやガヴォットの演奏では、バッハの時代の民衆の息遣いが聴こえてきそうな躍動感が印象的でした。
続くシャコンヌは編曲版を除いて通常バイオリンで演奏されますが、今回は奏者の佐伯さん自身がクラヴィコード用に編曲したものとのこと、バロック独特の華美な装飾は影を潜め、牧歌的なイメージさえ感じたほどでした。特に中間部二長調の音色はむしろギターやハープに近く、クラヴィコードという初期の鍵盤楽器の特徴を表わしていました。     

           

その後短い休憩を挟んで、当日のメイン「旅と手紙で綴るショパンの愛と生涯」の語りとピアノ演奏が始まりました。
それは2009年の3月、語り手の下重暁子さんが自転車振興会の会長として、仕事でワルシャワに赴いたところからスタートしました。
「重たい雲と明るい青空のコントラストが、ショパン作品の哀愁ときらめきを象徴するようだった」という下重さんの言葉が印象的でした。また「雪に覆われた道を一時間かけて向かったショパンの生家は冬季休館中で入れず、仕方なく寂しげなレストランで野菜スープを飲んでワルシャワに帰ってきた」というくだりが、これから始まる『ショパンの愛と生涯』の内容を暗示するようでもありました。 
<
佐伯さんによるノクターン9番のピアノ演奏> 
以下、下重暁子さんの語りの内容を紫色で記しています。  
戻った先のワルシャワのショパン記念館も冬期休館中でしたが、若い頃彼がオルガンを弾いていた教会は中を見ることが出来ました。またショパンは高校でオルガン士として活躍しており、「オルガン士は校長の次に重要です」と手紙に書くほど誇りを抱いていました。また当時ショパンの師であったエリスマンも 「ありきたりでない才能を持ち、その独創性は必ず評価されるだろう」と記しています。
そんなエリスマンの予想通り、卒業後ウィーンへ渡ったショパンの評価はすこぶる上々でした。「自分の演奏に驚くドイツ人の様子に自ら驚いてしまうほど、ウィーンでのデビューは大成功でした」と、ショパンは意気揚々と手紙に書いています。
しかし二度目のウイーン演奏旅行では、ショパンはポーランド独立運動家のレッテルを貼られ、演奏会さえ開けない状況でした。そのことがきっかけで、ショパンは「僕がこのままポーランドに帰れば、父の(経済的)重荷になってしまう」と思い込み、パリへ行く決心をしたのでした。 
<同プレリュード4> 
ショパンはパリの社交界でも才能を認められ、再び大成功を収めます。「パリは最大の華麗であり卑猥、僕は著名人や貴族の中に身を置き、自由を得ました」と、その鮮烈な印象を綴っています。一躍パリの寵児となった彼はロスチャイルド家のピアノ家庭教師に抜擢され、「僕は最高の社交界にデビューしました、ここは自分になくてはならない環境です」とも記しています。またシューマンは、「諸君脱帽したまえ、天才だ!」と言って最大限の評価を与えました。
そんな環境下でショパンは運命の人、ジョルジュ・サンドと出会うのでした。183612月、ショパン26歳の時でした。対するサンドは33歳、既に著名な女流作家でしたが当時としては決して若くなく、二人の子持ちでもありました。当初ショパンは「あれが女だろうか?」とその印象を述べていますが、既にその夜の日記では「ピアノを弾いている時、あの人の目が僕の目の中にありました。僕の心は奪われてしまったのです」と記しています。サンドの狙い通り、ショパンは速攻で恋に落ちたのです。
またサンドも、ショパンへの気持ちを次のように記しています。「私は自分を愛した人に忠実です、しかし可愛いショパンが私に引き起こした気持ちにまごついています。実は私は行動を理性で規制できない、多感な女であることがよく分かりました。この世に接吻ひとつない愛、また性的喜びのない接吻があるでしょうか? ある行為は私たちの思い出を汚すとショパンが言っていましたが、それは違うと私は思うのです」と・・・。
そんな二人の熱愛はパリ中の噂に上り、周囲の目にも疲れ果て、病弱なショパンと息子の健康のためという理由で、先ずはスペインのマヨルカ島の港町、パルマへ旅立つのでした。
<同プレリュード15番、雨だれ> 
パルマに着いたサンドは「ショパンはバラの花のように生き生きとして、私たちの旅行は幸先良く素晴らしいお天気に始まっています」と記しました。
ショパンも「パルマは終日太陽が輝き、万事が町ぐるみでアフリカ風。誰もが夏の装い、しかし暑いのです」と残しています。 
<同プレリュード7
ショパンは「僕は音楽を夢見ているのですが、ここはピアノが一台も存在しない野蛮国です。ピアノを早く送ってくれとプレイエルに言ってください」と、制作意欲を示します。ようやく届いたアップライトのプレイエルで早速プレリュードを作曲し、「プレリュード集を送ります、ピアノは完璧でした」とプレイエルにしたためました。
その後マヨルカ島は雨季に入りました。あまりの悪天候に愛想を尽かしたショパンとサンド親子は、港町パルマから約56km内陸のバルデモサへ移動し、断崖に立つ修道院で暮らすことにしました。
しかしショパンはその修道院を「僕の部屋はまるで棺桶のようだ、これでは書く気が起こりません」と、その印象を綴っています。サンドも「ショパンは自己の中に沈静して行くようでした。喀血と妄想におののき、その不安に耐えることができないようです」、また「ショパンにとって、修道院は恐怖と幻影に満ちていました。買い物から帰ってくると、涙を流してプレリュードを弾きながら、『僕にはあなたがたが死んでしまったのが分かっていましたよ』と叫びました」と記し、ショパンの病状と精神状態が悪化していくことに心を痛めていました。
<同プレリュード6>
(下重さん)もバルデモサの修道院に行きました。パルマから山を二つくらい超えると、断崖の上に建つ古い僧院がありました。中にはショパンとサンドが暮らした部屋がそのまま残されており、縦型のプレイエルの上に猫が寝そべっていました。しかし日当たりが悪い庭にはか細い木々が多く、当時は他に誰も住んでいなかったことを考えると、ここで本当に二人の愛が育めたのか?と思えるほど淋しい場所でした。教会に祈りに来ないことを理由に、また肺病のショパンを避けるために近所衆からも敬遠され、不幸な愛だったことが偲ばれました。
サンドも「修道院滞在はショパンには責め苦、私には不毛でした」「病人は神経質で手が負えず、スペインの空の下では彼にとってあらゆるものが不快です。もはやマヨルカでの生活は、耐えられるものではありません」と記しています。
さらに帰国を決意した彼らに対する周囲の反応はますます冷たく、「あの肺病やみはそのうち地獄行きさと言って、友人たちはパルマまでショパンを運ぶための馬車すら貸してくれないのです」とサンドは嘆いています。ようやく手配した「無蓋の四輪馬車での移動はショパンの心身に堪え、パルマ到着と同時に恐ろしい程の喀血をしました」と綴っています。
1839213日、バルセロナへ向かう船旅では動物の奇声と臭気に満ち、ショパンは発作と喀血を繰り返しています。3ヶ月前の恋人たちの面影は消え去り、今は何と変わり果てた姿でしょう。歓喜の内に始まった二人の旅は完全なる失敗でした」とサンドは記しました。
そしてついに「私の愛は枕辺にあって病める子に向けた母親としての、深い慈悲に変わって行きました」と告白するのでした。

<同プレリュード18>
フランスに戻ってからサンドは、「ショパンは日に日に快方へ向かい、医師の診断はすこぶる良いものです。それにショパンが作曲をしました。彼には大金が入り、お金持ちになるのです。私もこれまで以上に仕事に励んでいます。そして暖かくなったら私の故郷ノアンに行き、プレイエルのグランドピアノを賃貸して彼を驚かせてあげましょう。これまではアップライトでしたから」と嬉しそうに綴っています。
それから1947年までの約7年間、冬はバリの社交界、夏はノアンで保養という二人の生活が順調に続くのでした。 
ところがショパンとサンドの破局は、思いがけぬところに潜んでいました。サンドの娘のソランジュが彼女の恋人を巡って母親と諍いを起こした際、ショパンが娘ソランジュの味方をしたことから始まりました。サンドは家からソランジュを追い出しましたが、母と娘の仲を取り繕うとしたショパンの態度にさらに憤慨したのでした。
「私はショパンを我が家の家長として認めるわけには行きません、それでは私の母としての権威が失われてしまうでしょう。彼の魂は純粋に詩であり、音楽だけに向いていれば良いのです。彼自身の不幸の原因は私に対する嫉妬深い愛着にあり、そのために私はこの七年間、ショパンだけでなく他の人に対しても処女のように接してきました。ある人は私の激しい肉体的情熱がショパンを消耗させたと言いますが、私は奴隷のように仕えることを受け入れてきたのです」と綴っています。
しかしショパンは「娘さんに耳を貸さないのは酷いこと、彼女には母親の愛情が必要なのです。時が解決するまで静かに待ちましょう」と答え、ソランジュへの態度を変えようとはしませんでした。
そんなショパンに対して業を煮やしたサンドは、「大変結構です、わが友よ。あなたが身を捧げなくてはならぬのはソランジュ、今後は彼女の面倒をみてやってください。さようならわが友よ、このおかしな終局を神に感謝しましょう。時々消息を知らせてください、しかし他のことは一切問答無用です」としたため、絶縁状を突きつけたのでした。
<同プレリュード20>
それ以降、ショパンとサンドは別々に暮らすことになりました。
傷ついたショパンはロンドンへ旅立ちますが、演奏活動は体調不良で思うように叶わず、死の影に怯える毎日でした。「ここでは音楽家は芸術家と認められません。それに加えて毎日が咳による呼吸困難と頭痛、なぜ神は私をひと思いに殺さないのでしょうか?」とまで言い切っています。
パリへ戻ると失意のショパンを待ち受けていたのは、貧困とさらなる衰弱でした。
そして最期の時を察知してか、最大の理解者である故郷ポーランドの姉、ルドヴィカへ手紙を送ります。「我が親愛なる姉上様、どんな医者もあなた以上の治療は出来ません。今すぐ僕のところへ来てください、旅費が足りなければ誰かに借りてください、僕が仕事をして返しますから」と・・・。
しかし18491017日、ショパンは姉ルドヴィカやサンドの娘ソランジュ、そして親しい弟子や友人たちに看取られ、39歳の短い生涯に幕を閉じたのでした。その後パリで大規模な告別式が執り行われ、多くの人々が悲しみに暮れました。ただサンドはノアンにずっと滞在したまま、見舞いにすら訪れませんでした。
姉のルドヴィカはショパンの遺言として、「未完作品やスケッチは焼却してこの世に残さぬように、また遺体を解剖して心臓を故郷の教会に戻すように」と残しています。そして遺言通り、彼の心臓はワルシャワの聖十字架協会の柱の中に、160年以上を経た今も収められています。  
<同ノクターン19>  

今回アトリエブルックス初の試みとなった語りを交えながらのコンサート、第一部で佐伯恵美さんの演奏による古楽器・クラヴィコードの「かそけき音色」を間近で楽しむことが出来ました。
また第二部の下重暁子さんの語り&佐伯恵美さんのプレイエル演奏では、ショパンの苦難とジュルジュ・サンドの心の変化を、ワルシャワやマヨルカ島の光景に重ね合わせながら、感慨深く味わうことができました。
特にサンドの情熱的で自由奔放なショパンへの愛情が「枕辺の母親の深い慈愛」へ移行し、最後は家長としてのプライドと責任に身を置くまでの変遷を描いた下重さんの語りは大変心に残りました。
あらためて下重暁子さんと佐伯恵美さん、そして遠くからもお越しいただいた多くのお客様に深謝申し上げます。
 

【2013/03/28 23:55】 コンサート報告 | TRACKBACK(-) | COMMENT(-)
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